この頃、望月の紹介で、複合無機元素イオン化溶液と出会い、プールの滅菌剤として応用試験に関与するようになります。
居合道を学び始めます。師範は紀野実(きのみのる)、裏側に「南無阿弥陀仏」の文字が織り込まれた胴着を着用していました。名誉九段を授与されるも「私のようなものは受け取る資格が無い」と固辞する潔い先生で、武士の在り方など日本の武士道精神を学びました。先生の父親は終戦後に全国の港湾荷役業務に従事、父親が雇用した人々が力を付け、山口組の成長に繋がったと聞き及んでいます。
●1990年
野上昭治が、野上倫加の勤務会社へ営業に来て二人は出会います。
野上昭治は東京で、野上倫加(旧名・柿沼導子)は宇都宮で、たまたま同じ生命判断士とそれぞれ交流していたことが判明、共通の話題による縁ができ結婚します。
●2017年
株式会社ソウルリバースバンキング役員変更により取締役就任
●資格等
社)日本防錆技術協会防錆管理士第402号
財)全日本剣道連盟居合道5段
詩吟・神心流吟士 吟士名:野上秀曲
野上倫加プロフィール
●1955年
10月6日、栃木県宇都宮市で生まれ。
宇都宮二荒山神社で「道子」と命名されるも、母親が勝手に「導子」に変えて出生届を出してしまいます。30才を過ぎてから生命判断を学び、自然界における数意の存在を知ります。自分の名前にある「導く」は、量子生態学を導き出す予言として自然界の采配で付けられたように感じ、科学のど素人が既存科学界拒絶の嵐に立ち向かう原動力になっています。
1930年生まれの父親は小学校卒業で就職、宇都宮の中島飛行機工場で電気系統の仕事に関わります。ここで技術を習得した後、電気技術のプロフェッショナルになり、母親が育つ電気店へ就職しました。
1950年~60年前後にステレオを自作、宇都宮市の栃木会館でレコードコンサートを開催し、当時のソニー製ステレオをしのぐ良い音だったと聞いていますが真実は不明です。
就職した電気店と小平重吉(昭和の栃木県知事・衆議院議員)との間にご縁があり引き立てられ、宇都宮市で初めての学校放送設備を整備したとも聞いています。
●1960年~70年
父親がテレビの電子部品を開発、チャンネルコンバーターだったと記憶していますが確かではありません。海外へも話題が広がったようで飛ぶ鳥を落とす勢いで会社が成長、全国紙の新聞記者が専属で付くほどでした。しかし地方銀行の担当支店長が乗っ取りを企んで裏切り、融資当日に融資が実施されず倒産します。父の努力を知る債権者たちは事情を知り、全員が債権放棄してくれました。
父の会社名は柿沼電子工業と言いましたが、何故「電子」という名称を使ったかは不明です。人が考えないようなことを思いつく父で、後に永久発電は可能だと言い出し構想を練るなどしていましたが、2004年に他界してしまいました。父の仕事柄、最先端の家電製品やプリント基板などに囲まれた「電子」と縁がある生活や父親の気質が野上倫加に影響し、電子移動だけで現象を説明する量子生態学提唱に繋がったと感じています。
●1974年
宇都宮市西小学校より宇都宮市立峰小学校へ転校、宇都宮市立陽東中学校を経て、栃木県立宇都宮女子高卒業。
●1976年~1988年
東京インテリアセンタースクール本科(現・ICSカレッジオブアーツ)卒業。
建築家を目指し建築設計事務所に就職が決定しましたが父親が猛反対、女性が殆どいなかった造園家になれと言いだし大喧嘩になります。結局父親に負け、造園設計の道へ進みます。しかしこの転換がなければ自然界と接触する機会は無く、量子生態学は登場しませんでした。
株式会社東光園、株式会社第一造園設計事務所勤務。
20代はアフロヘアでした。

20代後半、顔の肌が少しずつ汚くなります。行きつけの化粧品店へ出向き、あなたの言う通りに化粧品を買って手入れしてるのに、何故どんどん肌が汚くなるのですか?、と問います。すると店員から、そんなことありません、気のせいですよ。新しい製品を使ってみませんか、と言われます。
間もなく、伯母が日本で初めての自然化粧品を持ち込んできました。アザレ化粧品と言う、1977年に設立して間もない会社の製品でした。今も自然愛好家から慕われている、自然化粧品の日本の先駆者です。
アザレ化粧品は、化粧品被害に悩む妻のために、夫が製品開発を始めたのが最初です。アザレ化粧品から、人為合成分子の弊害を学び、天然原料に徹底した化粧品を使い始め、これ以上化学物質の入った化粧品を使わない暮らしを始めます。すると自己代謝によるデドックスが始まり、顔の表皮は夏の日焼けのように剥がれ、湿疹の嵐が押し寄せました。その顔どうしたの、と人から言われますが体内に入った化学合成分子を出さない限り治まらない、もしくは再び合成分子を入れないと治まらない、どちらを取るかで前者をとりました。およそ3年を経て、ようやくきれいになります。
この時代に知ったのが、テレビやメディアのマスコミは広告主の持つ問題は絶対に報道しないという、日本のシステムでした。1980年代既に日本消費者連盟の「危ない化粧品」という本には、こうした日本企業とメディアによる社会弊害が記されていました。
この頃の化粧品は、靴クリームとマッサージクリームは同じ製造法で、色を付ければ靴クリーム白ければマッサージへという時代、一生懸命手入れしていた女性には、両頬が黒いシミで埋め尽くされる症状が出ていました。大手化粧品メーカーは全国で訴訟を起こされていましたが、メディアは一切報道していませんでしたし、今もそんな訴訟があったことを知る人は、ほんの一部でしょう。
美しさを求めた多くの女性が反対の肌になりつつも、訴訟を起こした被害者以外は原因を知らされず、野上倫加の伯母もそんな顔になっていましたが、何も知らないまま生きた一人です。この構図がその後も変わらず続いていることを、2000年代に入り、伯母の薬害問題で確認します。
そんな日本の被害実情を疑問視する日本消費者連盟は、今も地道に活動を続け、日本社会の弊害を改善してくれていることを、この機会に是非知ってください。日本消費者連盟サイトのブックレットページを見ると、何も考えずに生きていることの危険性が見えてきます。
その事例が野上倫加の母親に見て取れる、とも言えるでしょうか。母親は新しい製品好きで、コマーシャルで新製品が出ると即購入する人でした。1960年代、幼稚園時代は真っ赤なウィンナーと粉末オレンジジュースで育ち、1970年代、小学校から中高時代、化学調味料や粉末出汁で作る味噌汁が美味しくて粉末出汁の凄さに感激、最先端のシャンプーとリンスを颯爽と使い、妹は前髪が付く額だけ湿疹の嵐になりますが原因不明でずっと過ごしていました。中学生の妹は、アトピー性皮膚炎という言葉がない時代、病院巡りをしながら額の湿疹と格闘していました。
1980年代、野上倫加は、目がチカチカして運転に支障を来す状態に。医者へ行っても薬局でも原因不明で対応不可、漢方医に相談しても事例が無く対処法がわかりませんでした。ずっと後に、あれは花粉症だったのだと気づきます。花粉症という言葉がまだ無い頃です。
設計事務所勤務で徹夜仕事の連続だった30才前後、昼食は毎日コンビニ弁当、タバコ一日60本の喫煙者でした。間もなく設計部長に就任、部下をいじめ抜き一人の若者をノイローゼにします。出来の悪い能なしは駄目な奴という効率主義の元、自分は正しいと確信していました。
このように、野上倫加20~30代、肌が汚く目がチカチカする性格の悪い人間として、社会参加していました。
化学物質が及ぼす人体への影響を知らない、化学物質は人間の知恵が生んだスグレモノと認識していた時代で、しかも自然を置き去りにしていることに気づかず人類技術は正しいとしか考えることが出来なかった野上ですが、2000年代に入り、ようやく、これは間違いだったと理解できるようになりました。ところが、自分が辿った道と同じ道を、未だ多くの人々が歩き続けていることに愕然としています。気づかないと自然摂理に背いたまま人生を無駄にすることを、特に、若い人たちに気づいてほしいと思っています。
ところで、アザレ化粧品のファンデーションは、1970年代に出会って以降、30年近く使い続けました。そして今考えると、この製品の組成と使用経験が、量子作用を理解できる素地を作った一つの要因と思えています。
アザレのファンデーションは、美容液の中に粉体鉱物を分散させていました。通常のファンデーションを顔に塗ると、肌呼吸ができず苦しいのですが、アザレのファンデーションは問題ありませんでした。やがて慢性腎盂炎に罹患して顔を洗うのが面倒で夜もそのまま寝てしまっても、アザレのファンデーションなら荒れること無く、問題ありませんでした。しかも、何年おいても腐敗しません。アザレ化粧品のおかげで、無機元素の機能性をを通した量子作用を体験し続けることができました。
●1989年
独立して、公園緑地フリーランスデザイナーへ
●1990年 野上昭治と結婚。
●1997年頃
財)大田区公園緑地振興公社理事就任(2002年頃まで)
●2003年頃
NPO法人 大田花とみどりのまちづくり理事長就任(2008年頃まで)

●2006年
株式会社ソウルリバースバンキング設立、代表取締役就任
●2017年
株式会社ソウルリバースバンキング役員変更により取締役就任
●公園緑地計画及び景観デザイン作品
・栃木県氏家町(現さくら市)庁舎外構実施設計
・栃木県氏家町(現さくら市)総合公園実施設計
・栃木県産業展示館(マロニエプラザ)外構実施設計
のっぽの3本の三角ポールは塗り替えて色が違っていますが、大刈り込み共々、通り沿いのファサードデザインは、ほぼそのままイメージを維持してくださっており、感謝。
・東京都多摩市中沢池公園実施設計
現在、花菖蒲の名所になっています。古い時計塔は、設計当時からあったものです。菖蒲田の高低差をつくるのに苦労したましたが静かな風情があり、これを活かすよう工夫しました。
・福島県いわき市走熊公園実施設計
・狭山市下川原土地区画整理事業基本構想策定
・宮城県名取市東北電力名取スポーツパーク公園緑地エリア設計施工
東北電力の厚生施設でしたが、東日本大震災でスポーツエリアが壊れ閉鎖しました。中央部に管理棟があり、この部分に象徴的なコニファーによる大階段をデザインしました。このメイン階段のデザインはお気に入りだったので、無くなってしまって残念です。
・東京都八王子市城山手地区街並み及び各住戸ファサードアイテムデザイン
街並みの石造りの門柱類は、野上らがデザイン施工したものが殆どです、お散歩してみてください。
・滋賀県琵琶湖水質浄化センター(biyoセンター)多自然型水路実施設計
・埼玉県秩父市大滝ダム及び雷電廿六木橋周辺サイン計画施工
・山梨県双葉鳥ケ池ニュータウンコンペ参加企業体公園緑地エリア計画
・小田原市飯泉土地区画整理事業計画提案書作成
・高根町福祉村計画提案書作成
・東京大学田無キャンパス跡地利用提案
・東京都港区白金公園実施設計
その他
●著書
ヒューマンバイブル
量子生態学
意識を持つ原子たちネクサス・AIが人間に変わる日
●資格等
1級造園施工管理技士
採石業務管理者
健康管理士上級指導員
健康管理能力検定1級
結婚後の二人
●1990年
1月6日、二人は入籍します。しかし当時、野上昭治は喘息と痛風によりステロイドなどの医薬品を常備、野上倫加は慢性腎盂炎で常に微熱があり、家事と仕事が両立ができない健康状態でした。この年の中頃に、野上昭治の姉夫婦を通し、酵素飲料・スーパーオータカと出会います。
●1993年頃
大高酵素株式会社の取扱店になり製造方法を把握、以後野上夫婦は30年以上、現在も同社と取り引きを続けています。
この酵素の製造法を知り尽くした上で自然界植物分子の機能性を掴んだことは、量子生態学の理論構築に大きく貢献しています。

結婚直後くらいの二人です(目黒叙々苑にて)。
●1994年後
複合無機元素イオン化溶液による浄水装置を、使い始めた頃です。
同時に、野菜ジュースという概念が殆ど世界に無い頃にジュースマシンと出会い、毎日野菜ジュースを摂取するようになります。ミキサーやジューサーが登場する中、圧搾という方法で作るジュースの摂取や酵素飲料を通し、日常生活で植物分子の機能性を毎日体験する状況になります。
同じ頃、上部頸椎カイロプラクティックの日本の第一人者・賀来史同と出会います。頸椎だけのアジャストで、野上昭治の喘息は一瞬で完治する体験を頂きました。その後、喘息の子どもたちや知人を続々と賀来カイロプラクティックに送り込むと、翌日から喘息完治を体験します。また、行きは歩けなかったのにアジャスト後は歩いて帰れた人も複数人いました。
一方喘息が完治しないケースや状況好転しない場合もあり、送り込んだ多数の知人たちのアジャスト結果から、健康異常には神経伝達異常と、細胞臓器の形態や機能による影響と、原因は2通りあることがわかりはじめます。この中で神経伝達異常に関しては医薬品を使う必要が無いケースがあると考えるようになり、手術や医薬品による治療で終始する医学技術に懸念が生まれ始めました。
同時期、保険セールスのギネス記録保持者・第一生命の柴田和子とご縁をいただき、彼女の最も低い金額の保険顧客になります。彼女の営業手法は相互繁栄を実現を相手に呼びかけるやりかたで、ウィンウィンになる要素を常に考えながら仕事をしていました。つまり、お互いが幸せになることで相互繁栄する自然摂理に沿う手法を、彼女は実践していました。
この頃、波動技術を日本に持ち込んだ江本勝が水の結晶写真技術を開発、複合無機元素イオン化溶液による浄水の結晶写真撮影を依頼しました。以後親しくなり、波動理論や水の結晶写真の理論を学び、野上らは量子作用の入口に立ちます。2000年頃には野上らのイオン化溶液の浄水装置を自らも使用し波動誌で取り扱い開始、ところが蒸留水に興味を持った江本と水質価値観に相違が生じ、野上らの装置を使わなくなり波動誌からも取り扱いが消えました。以後、疎遠になり、2014年、彼は逝去してしまいます。
●1995年前後
二人の病気が完治、すっかり健康体になり、健康の秘訣に気づき始めます。
ゼネコンにいた知人が早期退職して無農薬有機栽培農家に転身、1年後に送られてきた野菜とマーケット野菜の品質差に愕然とします。
野上倫加が、琵琶湖水質浄化センターの多自然型水路設計を受注、琵琶湖と東京を行き来します。
●1996~1998年
高品質の野菜を自給自足する必要性を感じ、様々な農法や就農地を調べ始めます。将来は、閉鎖空間で資源循環型の家を作りたいと、有機物の堆肥化技術、電気エネルギーの自家発電技術、汚水の浄化再生技術など、環境蘇生再生の技術や情報を、手当たり次第に収集していました。
●1999年
この年のお正月、野上昭治が金色の観音様の夢を見ます。この観音様が1995年に野上倫加が琵琶湖の仕事で御参りした観音像にそっくりで、野上倫加は観音像にお礼参りしていないことを思い出します。
5月、琵琶湖へ出向き観音像へ御礼、果たして野上昭治が見たのは同じ観音像と判明、そして御参りした日に「初夢」という詩吟と同じ状況に陥っていることがわかりました。この詩吟は野上昭治の最も好きな詩吟で、1959年に拓大で詩吟部を作って以降、ほぼ毎日吟じていた歌でした。
新規就農を予定していたときで、お目出度い詩吟の歌詞と同じ状況に陥ったことは、農業を通して何かの役割を果たすみたいだねと、単純に面白がっていた頃です。

上記が初夢の譜面ですが、歌詞と琵琶湖で起きた出来事が、シンクロしていました。 詩の内容は、亀が遊ぶ恵方の海から蓬莱を目指して七福神が船出をする、弁天様の音曲に併せて人々が舞うと、一晩で春が訪れるという、お目出度いものです。
実は観音様が祭られていた山は、蓬莱山と言いました。そして参拝直後、蓬莱山麓の骨董店で亀に載った七福神の置物(写真)を購入していたのです。後に、就農地が東京から恵方に当たっていたことに気づき、購入した七福神は、まさに恵方へ旅立った状況でした。
水辺・亀・蓬莱山・七福神・恵方と、キーワードがあまりにもぴったりで、ただ喜んでいました。そしてこの後、行く先々で弁財天と出会いおよそ20年後の2024年、どうやら量子生態学が弁天の音曲に当たるらしいと気付きます。つまり、人々が量子生態学を支持すると、一晩で春が来る可能性がある、ということです。笑い話のようですが、なきにしもあらずと、野上夫婦は白い目で見られながらも、量子生態学伝搬に頑張っている理由が、ここにあります。

この年の7月に転居、新規就農します。
転居後、近所の交番のお巡りさんが調査に来られ、その後、特捜の刑事さんがおいでになります。何故刑事さんが見えたか不明のまま、数時間、質問されながら無駄話をしてお帰りになりました。しばらく後、近所の人曰く、「今度引っ越してきた野上さんは、オウム真理教とは関係ありませんと町長が言ってたよ」、とのこと。
オウムのサリン事件が起こって数年、日本の警察は、日本中に潜伏するオウム真理教信者を捜索していました。今まで新規就農など無かった小さな街に、21才も年の離れた不自然な夫婦が引っ越してきて、相当怪しげだったようです。
こんな笑える話し以外に、この新規就農では様々な偶然が重なるのですが、書き切れないので省きます。詳しい経緯は野上倫加の本「意識を持つ原子たちネクサス・AIが人間に変わる日」の「謎」というパートに記してあるので、ご興味がある方は、書籍でご確認ください。
●2004年頃
世界最後のロシアントランプ占いプロフェッショナル・龍ミツコ(お名前の字が不明)と出会います。彼女の占いは、驚異的な的中率だったようです。1960~90年頃の全盛期には、時の総理大臣や企業家も相談に来るほどで、テレビの小川宏ショーにコーナーを持っていたとのこと。
当時の野上らは、北松から受け継いだ鉱物資源を産出する鉱山維持が負担になりつつあり、今後どうするか迷っていました。すると共通の知人から事情を聞いた龍が、この鉱山について占ってくださいました。そして驚くような結果が出ます。
龍曰く、「私の占い人生でこんなカードが出たことがありません、半端ではないお金が眠っています」
今、これをお読みになった皆さんは、こんなこと言われたらどうしますか?
もちろん、野上らは仰天すると共に、頭の中ではお金が舞っていました。すぐに鉱業権の売買を模索しますが、昔と時代が変わっています。興味を持つ人など居ませんでした。
再び龍に相談すると、もう一度占ってみましょうと。
そして出た答えに、野上らは再び仰天します。
「また同じカードが出ました」
野上らの仰天をよそに、この数ヶ月後、高齢だった龍は旅立ってしまいました。そして世界中のどこにもロシアントランプ占いのプロフェッショナルはいなくなりました。つまり、占い直して違う答えを得ようにも、もう占うことは二度と出来なくなったのです。「二人の鉱山には半端ではないお金が眠る」、そんな確定された結果が永遠に続くことになりました。
QEclubのトップページに記したとおり、2012年には、この鉱山で採れる世界唯一の品質を持つ粘土鉱物から、鉱物代謝という人類社会が聞いたこともない研究成果を得ました。この成果は、近代科学界に何千兆円払っても得られるとは限らず、どんな高額なお金を費やしても手に入らない成果だと思っています。その意味で、龍の占い結果と一致すると考えて良いでしょう。量子生態学は、半端ではない価値を持つ山が産み出した、お金に換えられない学問だと、世界最後のロシアントランプ占いが教えてくれていると思わずにいられません。
●2006年頃
老人ホームにいた野上倫加の伯母が、認知症傾向なので病院に連れて行ってくださいと連絡が来ます。預かった飲用お薬リストに仰天、15種類を飲んでいました。訪れた脳神経科医師に、「こんなにたくさん、薬は必要なのでしょうか?」と質問、そして戻ってきた答えは次のような内容でした。
「担当医の方針があるので医師としてはなんとも言えませんが、私があなたの立場だったら全て飲用を停止します」
この医師と相談した結果、血圧の薬だけを残し、他の薬の飲用を施設に停止してもらうことになりました。2週間後、施設より連絡が来ます。
「認知症が劇的に改善しました」
野上倫加のもう一人の伯母は一人暮らしで、時折、様子を見に訪ねていました。伯母は自分で車を運転し、料理も問題無く、友達と出かけるなど楽しげに暮らしていました。しかし、行く度に飲用薬の種類が増えます。心配していたある日、従姉妹から連絡が来ます。「母が一人で何も出来なくなった」と。思わず、「医者を変えてみて、そして薬のことを相談して」と返答します。
一年くらい経過したでしょうか、次のような連絡が来ました。
「違う医者へ行ったら薬の飲用を全部停止されたの、今は料理も出来るまでに戻りました!」
この伯母は、当時確か80才後半だったと思います。以後、99才まで元気に過ごしました。
●2007年
野上倫加が、良き社会作りを担う日本のリーダーを育てる日本アスペン研究所のエグゼクティブ・セミナーへ、第三者推薦枠で招待されます。東芝・第一生命・三井物産、日本IBM・キッコーマン等々、大企業の社長や部門リーダーたち16名の蒼々たるメンバーの一席を占める機会を得ます。製薬メーカー・エーザイの知創リーダーが参加していました。これ幸いと、彼にこれまで持っていた疑問をぶつけました。
「血圧を下げる薬と血液さらさらの薬を併用している人は、私が知る人ほぼ全員が、パーキンソン病みたいな歩き方になってます。これってお薬のせいではないですか?」
すると、彼はしっかり認識していました。
「おっしゃるとおりです。医師たちに注意喚起していますが、様々な事情で聞き入れません。こうした副作用対応のために団体を作っています。」
事実、今は、医薬品を使う患者さんが自分でお薬をチェックし、副作用による体調不良を把握して医師に問う知識を提供する環境が整っています。ただ何故か、テレビでも新聞でも、こうした存在の案内を一切していません。
1980年代、野上倫加が化粧品被害で学んだメディアと企業広告が持つ社会の理不尽が、2000年代になっても続いていました。さらに2023年、コロナワクチンの副反応問題が発生し、まだ継続していることを確認します。
この伯母の薬害問題から、自分の命を自分で守る知識やノウハウが必要な時代になっていると感じ、この年に「いのち再生研究会」を設立、野上らが持つ健康維持のノウハウを、正式に第三者にアドバイスする体制を整えました。これがQEclubの設立経緯です。
この前後から、ソマチッドと発見者ガストン・ネサンとのエピソードが始まります。また天津香久耶照大神の本名と出会ったお話しや、野上昭治は大石内蔵助の末裔と言われて育ち野上倫加は浅野内匠頭の関係者と言われて育ったのですが、この二人が結婚したことから原子の意識性に気づく話しなど、これ以降の二人の足跡は、会員限定サイトに、今後、順次公開予定です。
●量子生態学を産んだ畑の写真
1999年就農前の農業予定地、40年以上耕作放棄された土地でした。選んだ理由は、農薬も化学肥料も40年以上使用していない土地だったからです。

2024年の上の荒れ地の様子で、今は銀杏畑です。

1999年、開墾直前の別のところの畑。篠竹で隙間無く、猫の子一匹入れないほどでした。

2022年頃、上の写真のコナラの木は、こんなに大きくなりました。

●上に掲載した1999年に出会った以外に、1997年頃、2020年であった七福神たち、行く先を案内するように野上らの前に登場しました。





